山田辰夫の人生

山田 辰夫(やまだ たつお、1956年1月10日 - 2009年7月26日)は富山県射水郡大島町(現:射水市)出身。身長:170cm、体重:56kg。
職業:役者

富山県立高岡商業高等学校卒業後、上京し予備校を経て日本大学商学部に入学(後に中退)
1975年12月、19歳で日本大学芸術学部の面々で立ち上げた劇団「GAYA」の創立メンバーとして俳優活動を開始、舞台「東京少年鑑別所」で役者デビューした。

1980年石井聰亙監督の『狂い咲きサンダーロード』に主演しスクリーンデビュー。
この作品で「全身エネルギーのかたまり」と評され報知映画賞・日本アカデミー賞・ヨコハマ映画祭の各新人賞を受賞。
「賞には全然、縁がなかったので、卒倒しそう。なんだかツキすぎた年で怖いような気がしています」と、魔墓呂死特攻隊長ジンとは思えない殊勝な受賞コメントを残す。

1981年劇団のお手伝いをしていた典子さんと結婚

1984年の『すかんぴんウォーク』(大森一樹監督)では、大阪映画祭最優秀助演男優賞を受賞。

その後も『植村直己物語』『ヨコハマBJブルース』『オン・ザ・ロード』『凶弾』、若松節朗監督『ホワイトアウト』、滝田洋二郎監督『壬生義士伝』『陰陽師』『おくり人』、大林宣彦監督『理由』など100本以上の映画に出演した。

1999年今までトレードマークだったパーマをかけたリーゼントヘアをやめて、より山田辰夫らしいスタイルを模索するも本人のオーガニック嗜好と相まって、その後はヘアカラーもやめて晩年のあのスタイルに落ち着く。

2002年久々の主演作品となる出馬康成監督『マブイの旅』公開。
舞台挨拶で「こういう映画は口コミがすべて、よかった人はいいよと、そうでもなかった人は見ればわかると(人に)言ってほしい」と辰夫流にコメント。
小冊子になっているパンフレットの対談では「こういう映画をきちっとやらないと役者やっている意味がない」とこの作品にかけた意気込みを語っている。

一方テレビでは、『しゃぼん玉』『教師夏休み物語』『RUN』『ボディーガード』『マルサ!!』等多数の作品に出演した。ドラマ『はるちゃん』シリーズにも支配人役として出演。

バラエティ番組はあまり積極的には出なかったが、2006年『ダウンタウンDX』で滝を駆け上がる話を披露してダウンタウンを困らせ、『カミングアウトバラエティ!! 秘密のケンミンSHOW』では、本人はまったくその意思を持ち合わせていないのに、なぜかアンチ関西の急先鋒に祭り上げられ困惑する。また『笑っていいとも』テレフォンショッキングで何時間でも寝ていられるというぐうたら体質を暴露したこともある。

2005年に胃がんで胃を全摘出して仕事復帰したが、2008年にがんの転移により再入院。入院中も仕事をこなすが、惜しくも2009年7月26日10時15分、胃がんのため東京都西多摩郡の病院で53歳で死去した。

遺作は、2009年4月に撮影した10月公開の映画『沈まぬ太陽』。

主演での最後の作品は2009年10月公開の山口智監督『代行のススメ』

この作品はもちろん山口監督の世界観で成り立ってはいるが、演技のほうは辰夫ワールド全開で、メークや小道具にたよらない、時にはセリフすら削ったギリギリの演技で普通の人を普通に演じてみせるという、山田辰夫という役者の到達点にもなっている。特に秀逸なのは食事のシーンで、体はもう食事をうけつけなくなっていたはずなのに、そんなことはまったくおかまいなしにひたすら食う・・・なんでもないシーンなのだが、まさに役者魂炸裂の迫真の演技に圧倒される。

そして最後の仕事はFMでのナレーション『影』ですよっと・・・・


バーック